祖父
また古いアルバムをスキャンしている。
今度は自分の祖父母の家から持って帰って来て 「そのうちやろう」と二年程放置していた物。
古そうなのから選んで来たと思うのだが、一番古い写真から13・4年中身が抜けている。
まぁ戦後の混乱期の物なんて残っていて当然と思うべきでないかもしれない。
最も目当てとしていたのはこの写真。
アルバムからは剥がれ落ちていて 裏にこう書いてある。
どっかにもう少し詳しく書き留めていたのだけれど・・祖父は終戦までの一年ほどの間、徴兵によって大阪を離れ佐世保の海軍にいたと聞く。
自分の父は昭和20年11月の生まれ・・・って計算合わないじゃないかっ
とツッこんでもいないのに 祖母は祖父に会いに佐世保に行って、どんな所で長男{俺の親父}を仕込んだのかとか 慰安婦から回ってきたのであろう性病を子種と一緒に貰っただとか結構ぶっちゃけた話を聞かせてくれた。
記憶は相当しっかりしていたが あれもボケの一種なのだろうか?
10年程前 ぶらり旅の途中 佐世保の海上自衛隊の資料館に行って、当時の海軍資料も残っていると云うので調べようとしたのだが 所属部隊名が分からず大したことは分からずじまい。
「第一教導設営班 黒羽組」
この言葉を辿ってもう一度佐世保に行けば、自分の父が着床した大体の地点を 知る事が出来るのかも しれない。
どーでもいいっすねそれは。
祖父は商業デザイナーだった。
その技術が兵への教育の為の図説に役立つと云う事で 最前線に送り込まれる事なく生き延びたのだという。
自分が幼稚園の時だったかに脳梗塞で倒れ あまり歩けず まともに喋れなくなり、自分にはずっとただ座っている人という記憶しかない。21才の頃 外国でパスポートも全財産も失って身動きが全く取れなくなっている時、亡くなったという知らせが届いた。すごく歯痒かった。
別に最後に亡骸が見たかった訳ではない。
お葬式に行けば 来てくれる人を通して生きていた祖父の事を少しでも知れたかもしれないと思ったからだった。
この眼鏡を掛けているのが祖父、神粼真幸。
今の俺よりずっと若い頃の筈だけど、今の俺よりよっぽどしっかりした面構えをした、なかなかのイケメンだ。
本当に写真と云う物は この世の大発明なのだとしみじみ思う。