非日常と非現実

 縄文杉へのガイドの仕事をさせて頂いています。

 
 数年もやっていると 行きの段階でお客様がのちのちどうなって行くのか ある程度の予想がつくようになってくる。
 時にそこで見えてくる光景が 人としての尊厳無き姿である時、自分はどうしたら良いのか大変に悩む。


 「恐らく膝がつぶれますよ。」


 「行くだけは行けるでしょうけど、帰りは心身共に苦痛を伴うでしょう。行く限りは、何を言ってもその足で歩いて帰って貰いますからね。」


 「その雨具だと一日ずぶぬれで寒いですよ。」


 嫌な事を言う奴だと思われるだろうけど、「きっと大丈夫ですよ」なんてまさにその場しのぎな事は言いたくない。
 そして、後で“そこまでして行きたかった”とは思えない程の苦悶の表情を見ることになり、先に言った事を考える。
 「ホラ、言わんこっちゃない。言った通りでしょ」みたいな嫌味の伏線を自分は張っていただけなのだろうか?なのであれば最初からその場の励ましを言った方が良かったのか?
 忠告を発した所で、大体において考えはしないのだから。


 旅行とは、“非日常”を楽しむ行為なのだと思う。
 日常に無い事、経験した事の無い事だからこそ刺激的で価値がある。
 経験した事が無い事を知ろうとするには想像するしかない。想像とはあくまで非現実の世界。
 非現実の世界に居るから“その先どうなろうとなんでもアリ”に近い感覚が芽生えるのではなかろうか。
 現実の中で最悪の事態にも直面した事のある立場とは隔たりがあって仕方ないのか。


 非現実しか見えない人に引っ張られているといつか事故に繋がる。
 望まれざる現実ばかりを見せつけていると嫌われる。
 正解のライン取りが見えない事から目をそらさないでいたい。